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ARが向かう先は真っ白な街か?「Google Glass」を見て思ったこと

考えてみた

少し前に(といっても3ヶ月以上前だけど)、Googleが「Project Glass」を発表した。メガネ型端末を装着することで普段の生活の視野内にARを映す、とても未来感あふれるプロジェクトである。

しかし、この動画が発表されるとすぐに、ARに気を取られ前方不注意となりちょっとした事故を起こすパロディ動画が投稿された。まあありえる話である。この技術が進めば、もっと自然なファッションとしてのメガネにも適用できるようになるだろうし、もしかしたら伊藤計劃虐殺器官』のようにコンタクトレンズにその機能が収まるようになるかもしれない。

広告のターゲティング技術の進化

ところで最近、インターネット広告を中心として、広告のフレキシブル化が進んでいる。アクセスログなどからその人の趣味嗜好を予測し、その人にあったバナー広告などを表示するものである。これが発達すれば、まさに自分が望んでいたような広告ばかりが目に入るようになり、広告を「ウザい」と思っている現状を打開することができるだろうと期待されているが、はっきり言ってまだ充分ではないし、インターネット広告以外の、例えばテレビCMや屋外広告などでは一切行われていない(メディアによって役割が違うからテレビCMがフレキシブル化する必要はないのかもしれないのだけど)。

ARと広告ターゲティングで生まれる真っ白い街

この2つの組み合わせで都市空間が変わる気がする。つまり、現在の都市空間内における広告媒体をすべて真っ白にし、そこをARの投影対象とするのである。「Project Glass」では視野内に実際の風景とは全く別次元の平面的なレイヤーをつくり、そこにARインターフェースを表示していたが、それを街中に存在する真っ白な広告媒体に表示するようにする。いわば街中に即席のコントローラを作り出すのである。広告を表示するのもARで行うことで、個人に最適化された屋外広告を実現することが出来る。興味のない人にも広く周知したい広告の場合も、全員に等しくARで行えばいい。それは広告の供給側のシステムによって解決できる。

さらに、街全体を媒体とすることができる。街全体を真っ白にすることで、建物の壁面や道路、もしかしたら空にだって、どこにでもAR広告やインターフェースを投影すれば良い。もう横断歩道などのインフラだって、電車の運行情報などの生活情報だってARで映せばいい。街はまるでモデリングしたてのオブジェクトみたいに真っ白で、そこで生きる人々がARによって思い思いにテクスチャを貼り付けていくのだ。その世界では同じ場所に立っている二人が見ている景色はもはや同一ではない。景色を共有したければネットワーク上で視野の映像をシェアすればよい。一人ひとりに最適化された、その人のためだけの街がそこには広がっているのである。

真っ白な街における私たちの身体感覚

もちろん妄想である。僕自身、人とのコミュニケーションすべてにデジタルを介入させるのは個人的にあまり好きではない。ただ、その気に食わなさは僕自身が現在を生きる人間だからであって、未来にそういう技術が実現したらなんでもないものに思えるのかもしれない。それよりも少し気になるのが、もしこの世界が実現した時の、私たちのもつ身体感覚の変化である。

わたしたちには五感がある。視覚があり、聴覚があり、嗅覚があり、味覚があり、触覚がある。ARを非表示にすれば真っ白になる街で暮らすようになれば、まず真っ先に変わるのは触覚であるように思う。街の表面は全てプレーンなものになり、ARという視覚情報を投影されるだけの器となる。そうなったときに触覚はどう変化するか。まず考えられるのは視覚との連動が強くなること。今だって目で見て硬そうだと判断したものがもし柔らかければ、その柔らかさは強調されて感じられたりしてるのではないかと思うが、その結びつきがより強固になるのではないだろうか。街の表面の質感が全て等しくなったとき、もはや視覚で見た通りに触覚も感じられたりするのではないか。それは充分に有り得ると思う。

もう一つの未来として考えられるのが、触覚が消滅してしまうのではないかということ。この世の全ての表面が同じ質感になったならば、もはやそれを触覚によって区別する必要はなくなる。すべては視覚だけで完結してしまい、触覚は不必要なものとして切り捨てられてしまうのではないか。とも思ったが、触覚によって感じるものには、質感だけでなく形状がある。形状知覚のみに触覚が使われるようになったとき、僕たちの身体は、今とは全く違ったものに感じられるようになるかもしれない。

未来が進めば、身体感覚も変わるのかもしれない。