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自分を表現するということについて

「記憶」とは主観を含んだ「記録」である。
記録(情報)に主観を加え、分析をし、表現し、記憶は作られる。

最近、記憶がなくなってきた

最近記憶が無くなってきた。
誰も情報に主観を与えず、ただ受け取るだけなのである。記録は記憶にならず、ひとつひとつの情報によって自己を表現することはもはやできない。写真がインスタント化してきたこともその典型例のひとつである。

どうやって自分を表現するのか

では、どうやって「自分」というものを社会の中で表現するのか。それはおそらく「記録の集合」によってである。

情報過多のこの時代、情報は身の回りにいくらでもあり、息をするように取り込むことができる。その中でふと目についたものにタグをつけ、「イイネ!」をつけ、リツイートする。その集合体で自己を形成する。
身の回りに点在する情報の断片のどれを自分のものとするかで自己を決定するのだ。その情報の断片ひとつひとつに主観を与えて記憶として自己を形づくっていたかつてとは違い、記録の集合で人間は存在する。取り込んだひとつひとつの情報に対しては基本的に疑いを持たず、なぜそれを取り込んだかということもよくわからない。facebookにコメントはほとんどつけず、「イイネ!」しかないことがそのよい例だ。

そうなると人々はただの情報の受容者になる。受容し、選別し、自らに貯めこむ。咀嚼し吐き出すことがない。別に吐き出す必要がない。いくらでも情報は身の回りにあるのだから。

情報の供給者になること

だが、受容者がいるなら供給者が必要である。供給者たらん為には、ただ受容するだけではなく、咀嚼し吐き出さなければならない。
最近では取り込んだ情報を咀嚼し吐き出すことを、まさに食物を吐き出すことのように嫌悪する人も少なくない。吐き出すにしても匿名。また受容するのに慣れきっている人々は咀嚼の仕方を忘れているように感じる。

社会は供給者によって作られている。供給者になろうとするには、まずものの噛み方から訓練しなければならないようだ。