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「名前をつける」ということの勇気

考えてみた

「光」という名前の曲はいままで2回出会ったことがある。

宇多田ヒカル『光』

haruka nakamura『光』

同じ名前だけど、全然違う曲調。どちらもとても好きな曲だけど、気になっていることが一つある。それは「この人たちは、この曲に『光』という名前をつけるのが怖くなかったのだろうか」ということ。

「名前をつける」ということ

名前をつけることの意味

一般的に、「名前をつける」ということは2つの効果を持つ。

  1. 他のものと区別する。
  2. そのものに新しい意味を付与する。

たとえば兄弟は呼び間違いを避けるためにそれぞれ違う名前をつけられるが、それとは別に親が何かしらの意図を込めて子に名前をつける。(はじめ(一)から最後(了)まで幸せに暮らせるように、という意味を込めて「幸子」というような感じ)
単なる区別のためではなく、何かしら名付け親となる人の想いが、名前には込められている。

自分にとって特別な名前をつけること

昔、牧場を経営して競走馬を育てるシミュレーションゲームをやっていたとき、「自分が考える一番強そうな名前の馬」というのを考えていた。(なんという名前だったかは忘れた)
そのときの自分は「これ以上ないくらい素質がありそうな馬」が誕生したら、満を持してその名前をつけようとワクワクしていた。けれど素質がありそうな馬が生まれるたびに「いや、もっともっと強い馬が生まれるはず」と思い、なかなかその名前をつけれずにいたことを覚えている。要は「強そうな名前をつけた馬」が実は強くないかもしれない、ということを恐れていたのだ。

名前をつけることは「自分にとっての想いをそれに託す」ことであるため、生半可な気持ちではつけられない。なにせ名前をつけることは「他と区別する」ことでもあるので、本来であれば一度つけた名前をもう他のものにはつけられないのだ。

「光」という名前

そこで最初に書いた疑問に戻る。「この人たちは、この曲に『光』という名前をつけるのが怖くなかったのだろうか」

「光」という言葉には、誰しも何か感じるものがあると思う。光は希望のメタファーでもあるし、活力や聖なるものを想像させもする。朝の日差しか、はたまた昼の木漏れ日か、夜の焚き火の光か、イメージするものは人によって異なるかもしれないけど、きっといろんな人にとって特別な意味を持つ言葉だと思う。
当然この曲を生み出した人たちにとっても、思い入れのある言葉だったと思うし、そんな名前をつけられたこの曲たちは、きっと特別な存在だったのだろうと、勝手に思っている。

けど、だからこそ自分の生み出した曲に「光」という名前をつけることは、とても勇気のいることだと思う。一度その名前をつけてしまうと、自分が生み出した他の曲は「光」ではなくなってしまうのだ。

別に何も気にせずその名前をつけたかもしれないし、もしかしたら何個も「光」という名前の曲を作っているかもしれない。けれどもしそうでないとしなら、どんな想いでこの名前をつけたのか、他の曲が「光」でなくなることに恐れがなかったのか。そのことを思うと、「光」という名前であるというだけで、この曲に対する敬意を持たざるを得ない。それだけの勇気を持って名付けられた曲なのだから。