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手帳の使い方の話

考えてみた

数年前に大学生になって、バイトを初めてから手帳というものを使うようになった。それまでは多分脳内で把握できる分の予定しか入らない人生を歩んできたのだと思う。バイトが始まるとシフトが何日の何時から何時までとかいうのがたくさん入るから手帳を買わないとやってられない状態で使わざるを得なかったのである。

だがそれでも、バイト以外の予定はほとんど入らなかった。なにせ大学の学部時代はずっと製図室にこもっていて友達ともその場で「今から遊びにいこうぜ!」的な感じだったし、デートの予定なぞ入るはずも無かったのだ。バイト以外で手帳に書き込むべき内容といえば、課題の締切日と木匠会議、それに面白そうな展覧会の終了日くらいなものだった。ホントにすっからかんだったのです。 それが大学院に入って一変した。仲間としょっちゅう話し合いをすべき何かをすることが増えたのだ。ゼミや研究室でのコンペ、木匠の運営、さらには映画を見ようとか体育館で遊ぼうとか。それに院になって増えた授業での発表やレポートの期日など、迫ってくるものがやたらと現れだした。

「手帳をどのように使うか」で、その人の生活スパンみたいなものが見える気がする。僕自身は一日一ページの手帳を使っているが、予定やスケジュールは初めのひと月一ページのカレンダーにすべて書き込み、日ごとのページは日記とも言えないメモ帳がわりに使っている。見開き1週間の手帳を使っている人はだいたい毎週基本となる生活スパンがあるのだろう。昔の僕みたいな手帳をほとんど使わない人間はその日暮らしのように暮らし、「来週までにこれを!」なんてことはなかったのだ。ただやたらと遠い予定みたいなものは心に留めておいた。

最近は手帳もクラウド化した。googleカレンダーで家のパソコン、学校のパソコン、スマホ、全てでスケジュールは一括管理され、さらに知り合いと共有のアカウントを用いれば友達が記入したスケジュールが自分のカレンダーに反映される。
これはなんかもはや手帳の意味合いが変わってきたように感じる。行動のための手帳ではなく、手帳によって行動が規定され始めてきている気がするのだ。

例えば研究室のアカウントを共有しているのだが、それに誰かが研究室メンバーの誕生日をスケジュールとして登録した。すると別に僕自身はその人の誕生日を知っているわけでないのに、その日が来ると妙に誕生日を祝わなければならないかのように感じるのだ。他人が書き込んだ予定に行動を決め付けられている気がすることが、僕がgoogleカレンダーに馴染めない理由かもしれない。

スマホで登録したスケジュールとパソコンで登録したスケジュールが全く等しくなることはたしかに便利だと思う。しかしそれは同時に、「そのスケジュールを記入した状況」を忘れてしまいかねないことになる。そりゃあ手帳を一冊しか使わない僕もいつ手帳に書き込んだか忘れてしまうことは多々あるが、少なくとも「手帳を使える状況でその時手帳を使って記入した」ことは分かる。

このわずかなとっかかりが大事だと思うのだ。手帳を広げた記憶を頼りにいつこのスケジュールを書き込んだかをたぐり寄せる。どんな状況でその予定を書き込んだかということは、きっとその予定が自分の中でどれほどの意味を持っているのかをじゅうぶんに表してくれるはずだ。

いつでもどこでもスマホを経由した動作を行なっていると、記憶を失ってしまいそうで怖い。何をする記憶もまずスマホのボタンを押す記憶から始まるのだ。記憶が均質化してしまう。記憶が均質化するときっと人も均質化してしまう。怖い。

いま一番怖いのが今年の初めから使っているモレスキンの手帳のゴムがもうへばってきていることだ。1年用の手帳なのに2ヶ月でへばらないでいただきたいですね。手帳なんて毎日開いて当然のものなんだから。