読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「ポジティブな定型文」で世界はポジティブになるのか?

考えてみた

オフライン、オンラインどちらのコミュニケーションにおいても、罵詈雑言を吐くことはあまり好ましくないとされている。悪口ばかり言う人は多分まわりの人からあまり信頼されないし、youtubeのコメントなんかを見ていると、「気持ちよく聴いてる人がいるんだから悪口なんか投稿するな。文句があるなら聴かなきゃいい。」というコメントを見ることは少なくない。確かにむやみに悪口を言っても誰も得はしないかもしれない(言った本人はスカっとするかもしれないけど)。罵詈雑言ばかりが飛び交う場の雰囲気は確かに殺伐としてしまうかもしれない。

けれど僕たちはしばしば悪口を言ってしまう。それはやっぱりなぜかはわからないけど悪口が快感であるからで、その悪口が実はみんなの共有認識だったりするとその場のコミュニケーションはすごく盛り上がる。そうした快感は人の成長を止めるものだという意見を言う人もいるが、悪口というものは百害あって一利なしと一概に言えないのも確かだと思う。

悪口が許されないアーキテクチャ

けれども、ネット上ではそれが許されなくなってきている。それも制度的にである。facebookでは人の投稿に対するアクションとして、コメント以外には「いいね!」しか許されていない。「コメント付けるほどでもないけど、なんか違う気がする」というような、日常的によくありそうな場合において、facebookでは沈黙しか選択肢がない。言えるのは「いいね!」だけなのである。『facebookに荒らしがいないのは「いいね!」ボタンがあるから。みんな人に「いいね!」と言ってもらえるような投稿をするようになり、いい感じの雰囲気の投稿で満たされていく。』という記事を昔見たが、もしかしたら、人は「いいね!」と言ってもらえないことがすなわち否定の印であると捉えることになりはしないだろうか。「いいね!」という「ポジティブな定型文」は、ともすると「沈黙」を「ネガティブ」なものにしかねない。

一見ポジティブっぽい定型文「皮肉」

「ポジティブな定型文」の問題として、「皮肉」がある。あるネット麻雀では、対局中に対局者同士で会話することができる。僕自身は麻雀がしたいだけなので、ほとんどそんな機能は使わないのだけど、この会話機能はチャットではなく、定型文のスタンプであり、その定型文には「よろしくお願いします」「ありがとう」「ヨロシク☆」「キター!」といった、ポジティブなものしか用意されていない。きっと運営の視点からすれば、チャット形式にしたりネガティブな定型文を入れたりすると荒らしが増えてよろしくないということなんだろう。非常に管理社会的である。

しかしある日、ちょっとしたミスで相手に点を与えてしまったとき、その相手から「ありがとう」という定型文で皮肉を飛ばされたとき、「ポジティブな定型文」しかないこの世界ではそれに対する反論ができなかったのである。言われっぱなし。相手は言葉を支配するその場のシステムを逆に利用したのである。「皮肉」というものを考えたときに、ポジティブな定型文に限定されたコミュニケーションは機能不全を起こす。顔が見えない分、余計に腹が立つ。

結論

twitterやにちゃんねるを見ると、管理されないネット社会の問題点も浮かび上がるのだろうけども、管理社会、根拠の無いポジティブさに浸かった社会は、また別の問題を孕んでくるのではないかと思う。