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「町一番の美人」は誰も見たことがない

最近Amazonであるフィギュアが目に留まった。

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これ。http://www.alter-web.jp/figure/13/01_2/

何がというと、背中のカーブのラインがものすごくツボだったわけですが、それと同時に「このフィギュアは買ってはいけない」とも思った。

 

なぜツボったのか。そしてなぜ買ってはいけないのか。

このカーブがツボなのはきっとその見た目なのだ。あくまでカーブの「ライン」なのだ。実物を買ってしまうときっと触りたくなる。触るときっと見た目から想起された期待とのギャップに幻滅する。だから買ってはいけない。「あのパン屋の店員さんがかわいいらしい」と聞いてみて行ってみたらそんなにだったときの感じと似ている。そういう場合はそのパン屋に行ってはいけないのである。

 

「町一番の美人」はみんなが頭の中に思い浮かべる

理想とは想起されるものである。
昔どこかで読んだ話だが、ある小説で「町一番の美人」と書かれていた時に、読者はそれぞれが想起する「町一番の美人」を思い浮かべて話を進める。それは好きな女優かもしれないし、密かに気になっている知人かもしれないし、はたまたお気に入りのアニメのヒロインかもしれないし、人それぞれで一致するものではない。もしこの小説がドラマ化されたとき、その「町一番の美人」はとある女優が演じることになる。きっと今売り出し中、もしくはこれを機にブレイクする予定のちょっと清楚系の美人な女優だ。その女優が「町一番の美人」としてみんなに一様に提示される。確かにほとんどの人は納得するだろう。実際その女優は美人なのだから。しかしそれは理想ではないのだ。理想は散りばめられたヒントから受け手が個々に想起するものであって、提示されてしまった理想はもう理想ではないのである。つまり、「町一番の美人」は、誰も見たことがないのだ。

 

「想起される理想」というメディアデザイン

想起される理想は、ある意味ではコンテンツ制作のヒントになる。何といっても、「町一番の美人」と書くだけでみんながそれぞれイメージを想起してくれるので、こちらがそのイメージを提示するために四苦八苦する必要はないのである。

しかしこれは簡単な方法ではない。まず、その理想にある程度の大枠が必要である。「町一番の美人」であれば読み手は簡単にイメージを想起できるが、これが例えば「いかにも気象予報士らしい顔」とか書かれるとうまくイメージできない。「気象予報士らしさ」というものに、みんなに共有される大枠がないからである。この大枠があるかないかのところを見極めるのが大事である。大枠があるに決まってるような安牌を書いたところで凡庸なコンテンツにしかならない。

いわばこれはメディアのデザインなのだ。コンテンツは受け手によって補完されるインタラクティブなものとなる。如何に豊かなコンテンツを補完しやすい状況をつくるか、これはコンテンツが飽和しつつある現在、可能性がある方法に思える。

実験的なものとして「すごいWEB」がある。http://sugoiweb.nezihiko.com/
コンテンツは何一つないが、それを想起させるメディアである説明文を、逆にコンテンツに仕立て上げた実験作と言える。ここでその説明文の表現が工夫される。受け手が想起できるギリギリを目指さなければならないのである。そうして「理想的なコンテンツ」は作られるのだろう。

理想は私たちの頭の中にある。