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詳細を共有しないことで価値を共有できるコミュニケーション

考えてみた

昼間、「ピクニックの定義とはなにか」という疑問について少し話し合った。
「外でみんなでごはんを食べることことだ」「なら食事をしなければピクニックではないのか」「じゃあ、外をみんなで歩くことだ」「なら食堂に行くために屋外をみんなで歩いているのはピクニックなのか」「違うかも・・・」と、少し考えたところで、「みんなが『これはピクニックだ』と認識したうえで、みんなで散歩することだ」という話になり、それで一応の結論が出た。これは普通に考えたら「なんだそれ」というものかもしれない。なぜならみんなが「これはピクニックだ」と認識するためには、ピクニックの定義が必要になるから。けどこれはこれでひとつの解決であると思う。

コミュニケーションのポイント

言葉に対する詳細な定義を共有しない

この回答のひとつのポイントは「個人が持っているピクニックの定義を共有しない」ことだ。
みんなそれぞれ、何かの対象を与えられた時、それがピクニックであるかどうかの判断はできるはずだ。例えばレストランで食事をして、それをピクニックであるかどうかはみんなそれぞれ答えられるはずだろう(その答えが一致するかどうかはまた別の話)。その判断基準は、ともすれば個人個人のアイデンティティに関わる場合もあるので、アンタッチャブルにしておいたほうがいい場合もある。

メタ定義を共有する

そしてもうひとつのポイントは、「みんなが『これはピクニックだ』と認識したうえで、みんなで散歩することだ」というピクニックの(メタ)定義を持つことで、みんながピクニックの雰囲気を共有することができるということ。
みんながピクニックというものを楽しいものだと認識していればこそではあるけども、みんなの中での厳密なピクニックの定義をあえて共有しないことで、それでもみんなが「これはピクニックだ」と認識したものは、その「場」においてはまぎれもないピクニックであり、その事実を共有することで、みんながその場のピクニックの雰囲気を味わうことができる。個人のピクニックの定義を無理に共有しようとすると、きっとどこかでほころびが生じて、純粋なピクニックをみんなが楽しむことができなくなる。

定義を共有しないことで、価値を共有する

その対象の厳密な定義を共有しないことで、その対象の価値を共有することができる。

これは最近のSNSにも言える話だと思う。例えばfacebookの「いいね!」は、なぜそれを「いいね!」と思ったかを述べる必要はない。なんとなく「いいね!」なのだ。つまり、みんながそれに与える「いいね!」の定義を共有しないまま、みんなの「いいね!」が積み重なっていく。するとまるでみんなが自分と同じ価値観で「いいね!」と思っているかのように、それの価値が膨らんでいき、「なんとなくいい」価値がみんなで共有されていく。

定義を共有しないこと。これが最近のコミュニケーションの最大の特徴であり、つまりは定義を共有しないままコミュニケーションを取ることができるそのツールの枠組みが優秀なのだなあと思う。